コラム

新しいタイプの「原因と結果」(1)


近年私が感じている新しいタイプの「原因と結果」の関係について書こうと思います。

本題の前に「機能主義」について書かねばなりません。

機能主義というのは近代特有の概念ではなくて、古来からあるものです。
ちなみに、機能というのは「ものの働き」のことです。

「方法」や「手段」を使って「目的」を達成する、という普遍的な思考形式がありますが、方法というからには再現性が必要になってきます。そしてひとたび方法が確立すれば、誰がやっても同じように目的を達成できなければなりません。

目的は個人がそれぞれ持つものですが、似たような目的を持つことも多いわけです。そこで方法というものが大事になってきます。

そうなると、「どうやって新しい方法を構築するの?」という話になってきます。
当然そのためには、あらゆる対象がわかりやすい形になるまで分解される必要が出てきます。

例えば、おいしいリンゴを作りたい、という目的があるとします。
多くの人がこの目的に取り組んできたことでしょう。
でも、どうやっておいしいリンゴを作ろうか?と考える前に、
いろんなことを明らかにしないといけません。

・どういう要素に人はおいしいと感じるのか?
・リンゴの成分は何なのか?
・成分のバランスによって、どのように味が変わるのか?
・どういう育て方だとおいしくなるのか?
・最適な肥料や防虫剤は?
・伝統的なリンゴの育て方のどこに改良点があるか?

・・・など。
これらが少しずつ明らかになっていくと、リンゴをおいしくするための方法が
組み立てられます。誰もが使える方法になります。
認識できる要素から出発しないと、人間の頭は方法を組み立てられないのです。

対象全体を要素へと果てしなく分解し、それらの一つ一つの働きを元に全体を再構築させて、目的に到達する・・・これらは総じて機能主義だと思います。そして、我々の日常はこうした機能主義的思考に満ちています。建築やプロダクトデザインに限らず、機能主義的思考は今や社会システムやあらゆるジャンルに広がっています。

たとえば、健康番組とかで~~にはビタミンと繊維が豊富に含まれて、こういう作用(つまり機能)があって、体のこういう所にとてもいいんです。・・・・といった説明のしかたは機能主義的な説明なわけです。

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さて、ここからがおもしろい!
新しいタイプの「原因と結果」についてです。

5,6年前に聞いた話ですが・・・

「公衆便所が大変汚くて困ったそうです。
ある時男子便所の便器の真ん中にハエのプリントを貼ったそうです。
そしたらみんながハエを狙うように用をたすようになったので、
結果的にトイレが劇的にきれいになった・・・。」

・・・というのです。
どこの話なのか、事実としてあったのかさえわからないのですが、
これを「面白い工夫だね」とのんきに笑って済ませることはできません。
仮にこの話がフィクションだったとしても、
でまかせのアイディアと切り捨てることはできません。
従来の概念では捉えられない領域に踏み込んでいるからです。

私なりに想像を広げてみます。

例えばこれが駅のトイレの話だったとします。
トイレがあまりにも汚いとこんな発言が出てきそうです。

駅長:「こんなことではいけない。清掃費を上げて、頻繁に清掃するようにしよう。」

学校の先生:「トイレの使い方に限らず、こういった問題の根本は教育に
        原因があると思います。道徳や生活の授業で取り上げるべきです。」

広告会社の社員:「トイレだけじゃなくて、公共の物を大切に使ってもらえるように、
           みんなの意識を高めるポスターが必要でしょう。」

クリーニング会社:「単純に使用者が増えたんだよ。今までの洗剤だけじゃ、
            清潔さを保てないんじゃないか?ほら、汚れを分解する
            二酸化チタンコートってあるじゃない。」

デザイナー:「もっと便器のデザインとかトイレの空間全体を美しくすれば、
        それだけで使う人の気持ちが変わると思いませんか?
        きれいに使おうって思うでしょう?」

一般の人:「トイレを外国みたいに少額でもいいから有料にすれば
       良いんじゃないですか?
       管理人が常に居ればきれいに使ってもらえるかもね。」

・・・こんな声が聞こえてきそうです。
(違和感ないぐらい普通の意見として書いたつもりです。)
立場の違う人が、みな口々に原因を暗に想定し、
それに沿った解決方法を口にしています。

しかし、どの方法とも違うやり方でトイレがきれいになってしまった・・・。

ここに新しいタイプの原因と結果の兆候が見えています。
それは目的と方法の関係が変わることを意味します。

・・・いったい何が起きているのか?

次回も別の事例を挙げて、さらに分析します。

(この話にぴんと来ない方は、こういう例はどうでしょう?

例えば、最近子供がなぜ切れやすくなっているのか?という問いに様々な人が原因を挙げています。
・メディアの影響
・マンガやテレビの影響
・シックハウスや住環境問題
・教師の力量不足
・親の接し方、育て方

・・・あらゆることが言われています。

今回の話はある問題に対して、様々な仮説が立てられるけれど、実はもっと違う次元に答えがあるかもしれない、という話です。



新しいタイプの「原因と結果」(2)につづく

新しいタイプの「原因と結果」(2)


ニューヨークに関する話を取り上げたいと思います。

1992年の時点で、ニューヨーク市では2154件の殺人事件が起こり、626,812件の重罪事件が起きていたそうです。
しかし、ある時から急激に犯罪発生率に変化が起きました。
5年間で殺人件数は64.3%ダウンして770件。
重罪事件の総数は半分の35,5893件に・・・。

なぜか?

このときも、さまざまな理由が挙げられました。
が、しかしほんとの理由は違うところにあったようです。

■2つ目の事例

犯罪を劇的に減少させた方法が生まれたきっかけをつくったのは「割れた窓理論」と呼ばれる理論でした。犯罪学者が主張した理論です。

簡単にいうと、街の中で窓が一つ割れて放置されると、無法状態の雰囲気が現れ、それが隣の通りにまで広がり始めるというのです。つまり「ここでは何をやってもいい」という環境的な信号が出始めるということです。

この理論に基づいて、地下鉄を徹底的に掃除し、清潔さを保つという対策がとられました。

一台でも落書きされたらその車両は外すという徹底ぶり。
子供が三日かけて一生懸命に車庫の車両に落書きしたら、あえて三日目にきれいさっぱりにするという冷徹ぶり。

「割れた窓」が生み出す空気を徹底的に消し去ったということです。

■3つめの事例

これもニューヨークの事例ですが、2つめの事例と同じぐらいの時期に、無賃乗車を徹底的に取り締まったそうです。

私服の警官が配備され、無賃乗車した人に手錠をかけました。

面白いことに、次々と捕まえた人を手錠で数珠繋ぎのようにして立たせておいたそうです。

無賃乗車はそれまであまり力を入れていませんでした。というのも取り締まってもたいした問題では無く、重大な犯罪に力を注ぐべきだと考えられていたからです。しかしこの取り締まりは思わぬ副産物をもたらしました。無賃乗車する人の何人かに一人は、武器所持者だったり、指名手配犯だったからです。

無賃乗車をすると、もう踏んだり蹴ったりになるわけです。
これじゃ、やましい人はうっかり乗れませんし、些細な不正もしないように気をつけなくてはなりませんよね。

その後ジュリアー二市長が当選すると、地下鉄での試みをニューヨーク全域に適用しました。
・・・その結果が冒頭の数字に結びついた、というのです。

■4つ目の事例

あまり聞きなれない言葉ですが、ディドロ効果について書いてみます。

ディドロ効果というのは、ある特定の物が環境に入り込むと、それがマッチするように次々に別のふさわしい物に置き換えられて、ついには全体が変わっていくことを指しています。

ディドロというのは百科事典を初めて作ったフランスの思想家です。
あるとき知人から贈り物として緋色のガウンをもらったのですが、部屋があまりに貧相に思えて、ガウン相応の家具が欲しくなり次々と買い替えを進めたというものです。ディドロ効果というのは、実は私たちも体験しているかもしれませんね。

中国でも似たような話があります。王様が高価な珍しい箸を手に入れたとき、臣下がそれをいさめたそうです。

「王様、その箸を使ってはいけません。」
「なぜだ?」
「そんな高価な箸を使うと必ず高価な器が欲しくなります。
高価な器を手に入れるとテーブルとか椅子もそれに合わせた物を求められるでしょう。
次は部屋の調度品のみならず、建築物にもそのレベルにあった物が欲しくなってくるでしょう。
やがてそれは庭や街に及んで、ついには国の財政を圧迫することになるでしょう。」

このいさめを王は受け入れたとか。

■5つめの事例
「女の平和」

これは古代ギリシャの劇作家アリストパネスによる紀元前の反戦喜劇です。
日本語新訳で出ています。

このお話は古代ギリシャのペロポネソス戦争が題材になっているのですが、戦争に反対するアテナイとスパルタの女たちがセックス・ストライキを起こして、戦争のことしか考えない男たちをこらしめる舞台劇です。
戦争やめるまではお預けよ!みたいなノリでしょうか・・・。

紀元前のお話ですが、アイディアは秀逸だと思います。
先のイラク戦争ではこの物語を朗読するという運動が起きました。
結果は皆さんご存じの通りですが、ネットが発達した現代では遠隔地との連携がとりやすいわけですから、本気で試す価値があるかもしれません。

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私がこの一連の考察で注目したいことは2点あります。

一つ目は「小さな意識に作用することで状況が変えられる」という点です。

まとめてみましょう。

・トイレにハエをプリントすると、「おっ、小便で打ち落としてやれ!」
というちょっとしたイタズラ心からトイレがきれいになる。

・地下鉄を常にきれいにすることで、 うかつに汚せないという小さな意識が芽生える。

・少額の切符を買わないで電車に乗ろうとして、手錠につながれて
駅でさらし者になってしまうと、恥ずかしいという意識が植え込まれる。

・徹底的に駅で取り締まられると、犯罪者は「この町では下手に
動けないな」と感じ始める。

・高価な箸の事例のように、次々に生まれてくる小さな欲望の連なりが
全体を大きく変えてしまう。

・戦争に躍起になっている男達に、生理や本能レベルの意識に
働きかけることで「戦争してる場合じゃねえ!」と気づかせる。

どれも小さな意識が全体へ波及する事例ばかりですね。

でも2点目に注目したいことも同じぐらい重要なことです。
すなわち・・・
「採用された方法は、状況そのものの次元に比べて階層がずれている」
ということです。

もう少しわかりやすく言うと、

トイレが汚いからきれいにしたい! → だから清掃費を上げる
・・・・というのはとても直接的な目的と方法です。

しかしハエを便器にプリントするという方法は、私たちの小さな意識に直接働きかけるのであって、トイレをきれいにすることとは階層が違います。

凶悪犯罪が多発しているから何とかしたい! → だから取り締まりの人員を増やし、特殊技術や強力な武器を導入する、というのも直接的です。

しかし、徹底的に地下鉄をきれいにしたり、無賃乗車を取り締まるのは、凶悪犯罪に対して直接的に作用していません。

戦争という国や生命を賭けたものに対して、セックスという次元で解決を図る、というのも全然階層が違います。

そう! どの事例も私たちの通常の感覚や常識では捉えられないような階層の切れ目があるのです。
ここに新しいタイプの機能主義を感じ取ることができます。

目的に対して方法の質が全く異なるわけです。

これは「風が吹けば桶屋が儲かる」とか「バタフライ効果」と呼ばれるような概念に通じるものがあります。
しかしもう少しズームアップして微かな意識の働きに注目すると、新たな因果関係が見えてきます。

最初のテーマに戻ります。

今回のテーマは「原因と結果」ですが、詰まるところ「本当の原因は何だったのか?」という問いかけでもあります。

戦争が起きるとプラカードをもってデモ行進したり、「戦争はんたーい!」と叫んでいる人たちを目にしますね。しかし、デモ行進で戦争が終わった事例を私は知りません。
ここでは戦争したい人達の意識が問題だという前提があるので、直接訴えかけるという行動に結びついています。・・・これはトイレが汚いから清掃費を上げる、という話に似ていませんか?でもそれはどうやらあまり有効な方法ではない、と考えられるわけです。

本当に戦争を食い止めたいなら別種の方法を考えなければなりません。よく観察し、知恵を絞って階層の切れ目を見つけられれば、それが可能になるはずです。

小さな意識に作用すること。
今までの方法とは全く異なる階層を見つけること。

その先に新しい結果が待っているはずです。

高断熱の家の効果(1)


高断熱(外断熱)の住宅に関わったことがあります。
断熱には外断熱と内断熱がありますが、今回はその違いは置いておきます。

その住宅では外断熱にするために外壁を作り終わった後、厚さ10㎝の撥水グラスファイバーで覆いました。
その周りに通気層を作った上で、もう一周外壁を作ります。
基礎の下にも10㎝のスタイロフォームを敷いて家が丸ごと断熱材で包まれるようにしたわけです。

その住宅は普通の家の2倍以上の壁の厚みになりました。
当然大工手間もかかります。
全体的なコストは若干高くなりますし、狭い土地しか確保できない場合は面積的に負担になります。
その上、きちんと施工しないと中で湿気がたまりやすくなってリスクを伴います。

でも高断熱の効果を実際に体験すると、そういったことは些細なことに思えてきます。

家全体をすっぽり断熱材でくるむと、熱が逃げにくくなって、家全体の温度が比較的均一になっていきます。
ここが非常に重要なところです。

従来の家の場合、暖房をかけた部屋とそうでない部屋の温度差があるわけですが、この温度差というのがくせ者です。
お年寄りの心臓に負担をかけるという話を聞かれたことがありますか?
お風呂や夜中にトイレに行く時の廊下とか、最悪の場合亡くなられるときもあります。

ということは、人間の身体に何らかの負担をかけているわけです。
我慢で耐えられるうちは良いですけど、年をとるごとに負担の度合いは増します。
機械も無理をさせると、壊れやすくなったりガタがくるわけですが、それは人間の身体にも同じことが言えると思います。沖縄の人が長寿というのも、食べ物が身体にいいというだけでなく、温度差という要因もあるのではないかと思います。

朝起きる時、部屋が寒くてなかなか起きられないとか、脱衣所やお風呂場が寒すぎて入るのがおっくうになることもありません。温水を使った暖房と組み合わせると、エアコン無しでも普通に過ごせてしまいますから、極端に空気が乾燥することもありません。(しかも電気代は半分以下)

高断熱にして温度を平均化したら生活の仕方や過ごし方が変わる、ということが興味深いところです。家の中で寒い思いをしないですむと、体がのびのびとしてくるようです。いろんな年齢層が自然に受け入れられるような、ポジティブなライフスタイルの変化が起こせるんだろうな、と思っています。

※いちおう補足。

この家が快適だったのは、「外断熱だったから」とは言い切れません。内断熱でもしっかりと断熱していくことはできるはずだからです。
断熱がしっかりしている=高断熱ということです。

また、床下に温風をまわして家の一番下から熱を回しているという点も重要です。
高断熱による家全体の温度の均一化+床下暖房、という組み合わせだったから、この家は快適だったのです。

ですから「外断熱=内断熱より快適」・・・という式が成り立つわけではありません。

(外断熱だろうと内断熱だろうと、しっかり断熱されていれば家の室内温度を均一に近づけていくことは可能です。)

※ちなみに2重壁にすると外部の音もほとんど入ってこないようです。道路沿いなど、遮音が必要な場合も一つの選択肢として外断熱はありだなあと思ってます。


高断熱の家の効果(2)につづく

高断熱の家の効果(2)


メールでご質問を何通か頂きまして、そのやりとりを編集してUPします。

1:外断熱ってそんなに効くのですか?
体感したことないから実感がないのですが。
また、コストはどれくらい違うのでしょうか?

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実際すごいですよ。
お客さんは今年の冬はエアコンほとんど使わなかったって言ってました。(床下に温水で作り出した温風を流しているだけです。電気代は前に書いたとおり半分以下です。)

足元とかやわらかい暖かさで、室内の温度がそんなに高いわけでもないですが、快適です。夜トイレ行くときとかぜんぜん寒くないとのことです。私が真冬に伺っても、穏やかにぽかぽかする感じでした。

ただ、これは一概に外断熱のおかげだとは言えないと思います。内断熱でもしっかり断熱材を入れればいいのかもしれないからです。ですから前回の記事はあくまで高断熱について書いたつもりですので、この点お間違えの無いようにお願いします。

床下の温風だけですんでしまったのは高断熱だからです。ただの高断熱だけだと室内温度が均一になるだけで、足元が暖かいという効果にはならないです。実際、他の物件では完全な外断熱にしましたが、予算の関係上床暖房はありませんでした。真冬になるとやはり暖房の利きはとても良いものの、多少床が冷たく感じられて、スリッパを履くとちょうどいい感じでした。

2:体感できるということはかなり効果があるってことですね。外断熱の工法もそこまでしっかり作り込まないのもあると思いますが、工法の違いによって効果は違うのでしょうか?

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要は熱抵抗値の問題ですから、しっかり計算すれば大丈夫です。
今までの経験を総合して、私が最近考えている組み合わせは、基礎のコンクリートに温水を回して蓄熱して、外壁は高性能フェノールフォームを使って最小限の壁厚にしつつ、適度な暖熱効果を作り出す。・・・といった仕様がローコスト、かつ高性能なのではないかと考えています。
コンクリートは熱容量が高いので、熱を保存するのに最適なのです。温度の変化が少なく、安定して熱を供給できます。サーモスタットによって、熱がある程度あがれば自動的に電気が遮断されます。不必要に暖まることはありません。

まだまだ過渡期なのでいろいろな試みが必要です。

3:初期コストとランニングコストの差が、どれくらいの年数で埋まるのでしょうか。

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前回ご紹介した物件は結構特殊で、いろいろ余分な手間がかかっています。
一般的なものより2割ぐらいは高くなっています。
この物件は坪単価は90万ぐらいでした。

結構高いですよね。外壁と屋根に2軒分の手間が掛かっているわけですから当然といえば当然ですが。
だからこんだけお金かけてまで外断熱にする必要があるのか?という意見もあると思います。むしろ内断熱を完璧な高断熱にすればいいのではという考えもあると思います。また、いくら電気代が安いといっても、ローンを払い終えるまでに回収できるほどではないと思います。

しかし生活していく上で、お金に変えられない良さがあるから、一概にコストでは比較できません。ほんとに快適ですから。高齢になるほど、その良さがわかると思います。たぶん後々、体に無理がくるのを遅くできるんじゃないかと思います。

4:壁内の通気さえしっかり取れれば腐食も防げると思うのですが、耐用年数も普通の住宅より長いのでしょうか?

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外断熱は構造体の外側に断熱材があるわけで、構造体の温度と室内温度が一緒になるので、環境的に安定しています。ですから内断熱よりも耐久性はあるはずです。外断熱だと資産価値もあがります。

表現の可能性と限界


自分の表現ジャンルにもどかしさを感じたことがあります。
私は音楽のアーティストがうらやましいと思ったことが何度も・・・。
なぜなら感情を作品にのせられるからです。
曲のメロディーやリズムだけではなく、歌い方でもそれを表現できます。

建築は地味な作業が多いし、できあがりも動かないものがほとんどですから、
なにか感情が湧いてきたときに、アーティスト達のように表現できないのです。

逆に音楽をやっている人に聞くと
「建築は残るじゃない。だから建築やっている人がうらやましいよ。」
とも言われました。
うーむ、音楽やってる人は逆のことを考えているのか・・・。

この問題は何年か考え続けました。
確かにそれぞれの表現に適した方向性というのはありそうですが、
その表現の限界と可能性がいまいち見えませんでした。
しかし徐々にわかってきたことがあります。

昔見たポスターでこういうのがありました。
想像してみてください。

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黒い背景の真ん中に、赤いマッチが立てられています。
縦10本横10本(合計100本)ぐらいにまとまって並んでいます。
そこへ角から火のついたマッチを近づけると、次々に隣のマッチに引火。
全体に火が燃え広がっていく瞬間を捉えた写真でした。

・・・そして小さく「エイズ撲滅キャンペーン」と書かれていました。
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何か頭の中に何か生まれましたか?
人によって差はあるでしょうけど、私はエイズの恐ろしいイメージや
私たちに警鐘を鳴らすかのような、強いメッセージを感じました。

これはメタファー(隠喩)の力です。
私はこのメタファーの力にとても惹かれます。
感情や感覚、メッセージを表現できるからです。
言葉では説明しにくいことも表現できます。
音楽や小説、映画が表現するような次元のことを建築でもできる可能性を示唆しています。

「もの」は物理的に形を持った瞬間から何かを表現してしまいます。
それが意図的に表現されたものであろうと、無かろうとです。
リンゴがあれば、瑞々しそうとか、酸っぱそうとか、ずっしり重たそう、といったことを必ず表します。

そして「もの」が、特定の組み合わせにたどり着くと、「もの」が持っている表現を超えて、別の新しい表現が生まれます。先に書いたポスターでは、マッチとその先についた火とわずかな文字だけで、力強いメッセージを生み出しています。

音もバラバラに鳴っていればただ「雑音」ですが、それを並べれば「音楽」になりえますし、研ぎ澄まされた秩序を持たせれば「名曲」にもなりえます。
音楽は音以上の意味を持つことができます。

考えてみれば当たり前のことですが、いったんこれに気がついたら色々なことがわかったような気になりました。
そして建築の表現に大きな可能性を感じ始めました。

・・・・・・なんでもできる!

では表現の限界とは何だったのか?

様々なことが表現できると言っても、エイズの警鐘を鳴らすメッセージを何億もかけて建築で表現したところで、まるで意味がない。
この場合は建築よりは上記のようなポスターをいろんな場所で見てもらう方が効果的そうでしょ?
あるいはエイズ撲滅のための機関として、活動がしやすい機能的な建築を作った方がよほど効果的にアピールできそうです。

(巨大なマッチを並べたような建物を作って、エイズの脅威を表現しました」と言っても、お客さんが納得しないだろう!?なんでもかんでも表現できるって訳じゃない!))

表現の可能性は無限にあるけれど、限界点は作品の外側から規定されるとも言えます。

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表現を前提として作るのか、結果的に表現されてしまうのだから表現を前提としないスタンスで作るのか、・・・についてはいつか書きます。なぜこれが問題になるかというと、イメージの問題が出てくるからです。表現を過剰に意識すると、イメージを根拠に作ることになりかねず、単なるイメージ操作に終始してしまう可能性も出てきます。それでは建築としての前進がないからです。
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形式と内容


建築界で一昔前に回遊性という言葉がよく使われました。
回遊性というのは、建物に行き止まりが無く、ぐるぐると巡れるということです。

玄関(エントランス、学校の校門など)からそれぞれの部屋まで、しっかりした序列の元に、合理的にアクセスできる建物のあり方に対して登場した考え方だと思います。建築をプログラムに合わせて厳密に整然と作るんじゃなくて・・・、例えば都市や街が持っている回遊性を建物にも導入したらもっと建築は魅力的になるんじゃないか?ということです。

そしてこうした話は建築の形式性と自由ということがセットになって語られます。
形式が変わることによって新たな自由が獲得できる、という前提の元に話が進められます。(形式とは内容(プログラム、行為、目的を達成させるための実質)に一定の秩序を与える枠組み、と解釈しています)

こうした話は非常に説得力があります。
例えば公共施設のようなものを例に挙げると、大きな箱の中に小さな部屋がたくさん仕切られているんじゃなくて、小さな建物を敷地一杯にばらまいて、いろんな所から自由にアクセスできるようにしました、という説明があったとします。図面で見るとそれぞれの部屋は確かに自由にばらまかれているように見えて、いろんな所からそれぞれの場所へと巡れるようになっていると、見る人は納得してしまいます。なるほど、なかなか楽しい建物じゃないか、・・・と。
話を聞く前から、図面や模型からして楽しげな印象を受けると思います。
私とて例外ではありません。

・・・しかし、本当にそうなのでしょうか。
自由度の高い形式を作ると、行動も自由になるのでしょうか?
ここに疑念があります。

阪神大震災の時、建物はめちゃくちゃになり、既存の町並みは破壊されました。
人々は秩序ある街の形式から自由になって、自由に街を歩き回っていたでしょうか?
火や食料、避難施設を中心に行動していたのではないでしょうか。

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別の方向から考えてみましょう。

有名な童謡の中に
「雪やこんこん、あられやこんこん・・・
・・・猫はこたつで丸くなる」

というのがありますね。家は広々としているのに、猫はこたつの上で(一カ所で)丸くなっているのです。
(以前に高断熱の項目で書きたかったことは、単なる技術論ではありません。内容を支える要素が、形式以上の自由度をもたらす、ということを書きたかったのです。猫がコタツの上で丸くなっているという姿は、もはやここにはありません。)

これに似たような事例はいくつも見つけることができます。例えば・・・

・イタリアの広場で、暑い日に影の形に添って人々が涼んでいる

・サバンナの動物たちが日影で寄り添っている

・夏場に入ったレストランやカフェでクーラーが効きすぎて早めに外に出た
(全ての店がそうではないと思いますが、あれは人間の身体反応を利用して回転率を高めるという意図がある、という話を聞いたことがあります。)

どの事例も広大なフィールドがあるにもかかわらず、行動が極めて限定的です。
人間(動物)は自由に振る舞っているようで、そんなに自由に行動しているわけでもない、と言えるかもしれません。形式と人の行動は必ずしも一致していないのです。

人間の動物的側面を操作されると、行動は思いの外限定されてしまうのですね。ここでは温熱環境がもたらす事例を挙げましたが、こうなってくると形式にはなんの意味があるのか?という話になってきます。形式に関係なく行動が規定されているからです。

形式は人の「見る」という行為に対して説得力を持ちます。
「こういうことができるようなる」という可能性を理性に訴えかけ、実際にある程度、人の行為に秩序を与えることができます。また、視覚的な表現に直接リンクしてきます。

しかし内容を成立させる様々な要素、要因を論理的にチェックして整合させていかないと、形式は只の形骸化したフレームでしかないことがわかると思います。

だから両者を絶えずフィードバックして、最終的な表現に結びつける必要があります。

「建物が巨大化する」とは、どういうことか


オフィスビルや高層マンションなどのように、「床を積層させる」ということはある意味、土地を人工的に生産する方法です。国家的視点でみれば、「国土の拡張」とも言えます。
エレベーターはさながら高速道路や幹線道路のように土地と土地をつなぐインフラといったところでしょうか。

有名なビルを例に挙げて、「建物が巨大化する」ということを考えてみたいと思います。
アメリカのシカゴにあるシアーズタワーというオフィスビルがあります。

高さは500mちかくあり、床面積は42万㎡もあります。
(東京ドーム9個分、あるいは日本の一戸建てが建つ土地面積を100㎡と仮定すると4200軒分の土地面積!)
その他にも
・階数 110階
・収容人数 11000人
・エレベータは 104基
・トイレ 943個
・配管総長さ 40000km
・電話回線距離 69000km
・荷物搬入のためのトラック 175台/日
・店舗面積や設備用の床 10000㎡

といったデータがあります。
わずか一辺が70mの正方形の建物ですが、気の遠くなるような量ですね。
まるで小さな街を示すデータかと思うほどです。
(立方体も一辺が2倍になると体積は8倍になるので、大きくなればなるほど、それを満たすための要素は等比級数的に増えていきます。)

データから読み取る限り、巨大さを支える「量」が、都市的な「質」を帯びているように見えますが、具体的にはどうなのでしょうか。

・建設に投資する額も大きいだけにテナント利用率が問題になってきます。
テナントの利用率に関して小さなビルと異なるのは、巨大なプロジェクトであるほど多様性を確保する必要性が出てくるということが挙げられます。
1 万人以上収容するということは様々なジャンルの飲食店や店舗が入っていなければならないですし、小さい会社もあれば大きい会社も入るので、様々な広さの床を設定しなければなりません。実際このビルには理髪店、整体、歯医者さん、観光客用の土産物屋さん・・・・いろんなお店が入っています。

マンションの場合はどうでしょうか?
私が関わったことのある100m超のマンションでは住戸タイプが42種類もある物件がありました。
いろんなタイプの人が選べるように、ということですね。
同じ住戸が重なっていて、しかも家賃設定が同程度であれば、かなり似通った層の人が集まるわけで、むしろその方がいいのでは?という考え方もあります。
しかし、マンションなどは立地で選ばれるということもあり、一つの建物の中にも様々なタイプの部屋を用意する方が全体としてみると売れやすいそうです。「あの場所は便利そうだな」といろんなタイプの人が考えるということみたいです。
(・・・プランを考える方としては苦しい。売り出し文句が派手になるほど苦しい。。。なんで42タイプも・・・。泣)

経済的な合理性を確保するということは、「巨大さ」においてはいろんな意味で多様性を確保することと同義だと考えてます。
(土木的な巨大さや、工場などはまた話が違うとは思うのですが。)

・建物が巨大化するとリスクも高くなっていきます。
例えば平屋建てが火事になった場合、そのまま消防員が救助に入れるのに、2階建てになるとはしご車が必要になりますよね。もっと高層になると、はしごが長くなるのでクルマを安定させるためのアームを確保するスペースが必要になってきます。
避難する人が何千人にもなる、ということは一気に一階に人が押し寄せるということであり、避難スペースも考慮に入れなければならないでしょう。
また、これらのリスクを回避するための設備投資や警報システム、さらには、恒常的なメンテナンスも必要になってきます。

(一定の高さを超えるとヘリポートを設置しなければならなかったりします。)

人や物を集積させるということはリスクを集積させることと同義です。
大きくなればなるほど、リスクも高まっていきます。
9.11のテロはそういうことを象徴しています。
また、サリン事件は都市的な密集レベルを前提として企てられたテロでした。

・巨大化するということは人工的に環境を制御する必要性が出てくる、ということでもあります。
風は地面から離れて高くなるほど強くなりますから、高層階ではなかなか窓を開けることが難しいと考えられます。・・・窓を開けるたびにビル風が吹き込んだのでは仕事になりません。
また、外側の部屋と内側の方では絶対的な環境の差が生まれます。
ここら辺も小規模の建物と違うところです。
太陽の光は入りにくくなりますし、外側で窓を開けたとしても新鮮な空気が流れ込みにくくなりますから、人工的な空調や照明に頼ってそれらの差異を極力解消していかないといけません。
都市もまた人々が自然を排除して密集した結果、人工的に公園を作り出して生活環境を整えているのと似ています。

・巨大になるにつれ、あらゆる要素をシステマティックに動かしていく必要があります。
一軒の家ならそこで生活する人がゴミ処理や掃除をするのは当たり前ですが、中規模の建物ならメンテナンス契約をして清掃のサービスを外注するでしょう。
さらに巨大になっていくとそれらの仕事は細分化して、きちんとした役割分担をしていかないと、建物として機能していかなくなります。
オフィスで働く11000人全員が一斉に掃除したり、ゴミ出ししたり、警備に当たったり、・・・ということは混乱を招くだけです。また、生産性も落ちてしまいます。

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これまで見てきたように、建物が巨大になるほど、それを構成する要素の「量」の過多によって、一つの街や都市のような性質を帯びてくるのがわかります。

今日、日本では都市計画を打ち出すことにあまりリアリティがありません。しかし、だからといって都市計画的発想が社会的な意味を失ってしまった、ということにはならないと思います。
巨大な建物では、そのような都市的なレベルのアイディアを試せるのではないかと思っています。

自然科学と工学(1)


「どうやってデザインというものにアプローチするのか?」という問題があります。どんなジャンルであっても、物づくりをしようという人はこの壁に一度はぶつかると思います。建築だけではなく機械でもプロダクト製品、家具・・・様々なジャンルで現れてくる問題です。従って、これを自分なりにつかめば、他のジャンルにも応用することができるはずです。

■自然科学について

自然科学は基本的に「~とは何か?」とか「自然の諸現象の中にどういう原理や法則があるのか?」という問い方をします。例えば「生命とは何か?」とか、「建築とは何か?」とか「空間とは何か?」といった具合です。物事の成り立ちを追求するのが基本的なスタンスとしてあります。

自分なりに勉強して理解してきたことは、こういった問いかけは非常に西洋的な思考だということです。西洋ではこの世は神が創ったという前提があり、神が創った秩序があまねく世界に行き渡っている、という基本コンセプトがあるんだと思います。哲学を始め物理学や天文学などすべては宇宙や世界の秩序を見つけ出していく作業と考えて差し支えないと思います。

もうちょっとわかりやすく書くと・・・

→この世界は神が創った。
→そして人間も神が創った。
→ところで人間には理性がある。
→だからその人間を創った神には当然ぶっちぎりの理性があるだろう。
→そんな理性で宇宙を創造したのなら、当然のごとく世界の隅々まで完璧な秩序に基づいてできているはずだ!

こんな前提があるというのがだんだんわかってきました。

歴史を見ていくと、こういう秩序の発見というのは常に見いだすことができます。美しいと感じる人体をよく観察するとなにやら比例関係があるぞ?・・・これを黄金比とか名付けたわけです。その理論に基づいて彫刻や建築に応用されていきました。
他にもちょっと前にフラクタル理論とかが騒がれました。これは海岸線や山や川の形状が一見ランダムに見えるのに、微細に見ていくと実は秩序があった、ということで西洋的コンセプトの琴線に触れるものだったんだと思います。これは科学が大きな力を得ていてもなお、西洋では神の概念が根底にはあるんだろうな、と想像できます。


ルネサンスまでは宇宙の成り立ちは教会が宗教的に説明していただろうと思います。まだよくわからないことが多い段階では世界の秩序の説明を神に頼っていた所があると思います。
宇宙の中心は地球で、太陽がその周りを回っているという考え方があります。神が大地と人間を創ったのだから、当然地球が中心になるでしょうね。しかも球体ではなく平らだと考えられました。(実はそれ以前から地球は丸いとわかっていたのに宗教的につじつまを合わせるために平らだということにしたという話もあります。)
また、反対に月は完全な球で、月より遠い場所にある天体は不変のものと考えられていました。世間一般の人も当然のようにそれを受け入れていたと思います。しかし、本当は地球が太陽の周りを回っています。天体(宇宙)は絶えず変化し、月も大まかには球であっても表面はぼこぼこしているというのは誰でも知っています。

この天動説と地動説という有名な話は、新しい発見が旧来の概念を崩した、という単純な話ではないと思います。人間が物事を考える基盤が変わりつつあったことを意味しています。「神」という基盤とは異なるところから考えていくわけです。世界の成り立ちを「仮説と実証」を繰り返すというプロセスを経て説明します。そしてそこから法則を見いだすことで普遍性を獲得していくわけです。これが「科学」です。

(科学の中には自然科学、人文科学、社会科学などが含まれていますが、一般的に建築は自然科学の中の工学に分類されています。芸術的側面を含んでいたり社会学や心理学的な側面を含んでいるのではっきりした分類が難しいですが、本稿では建築は自然科学の中で工学に属しているという文脈から進めていきます。)


■デザインするときに現れた問題点

「建築とは何か?」という問いかけは少々漠然としているにしても、住宅なら「住宅とは何か?」とか公共施設で「公共ってなんだろう?」とか考えていくわけです。大学などの課題でもそういう問いかけをされたことが何回もありました。私の中ではこういう思考方法がいつまでも引っかかっていたのでした。

「~とは何か?」からはじまり「もしかしたらこういうことなのかな?」と仮説を立て、「だったらこういう風に創ってみたらどうなる?」・・・というプロセスがいまいち腑に落ちませんでした。いくつか引っかかっていたのです。

どういうことかというと・・・

・「~とは何か?」というのは言ってみれば新しく知識を見出そうとする行為です。新しいものを創るために、新しい知識が前提になるなら、都市や住宅といったテーマに関して莫大な予算と手間と時間を割いてリサーチする必要があります。とても個人の手に負えるような代物でもなさそうです。またひとたび設計を始めるやいなや、膨大な情報とともに分析や解釈に没頭しなければならないでしょう。これではとても設計(デザイン)をしているとは言えません。デザインが始まってすらいないわけです。
(別の言い方で表現すると「複雑な系の中でその状況を完全に把握しきるのは不可能」だということです。また、「したがって限られた時間や資源の中で、全てを把握しきった上での最適解を得ることも不可能」となります。)

・こういうデザインの始め方は知識を前提とした作り方とも言えます。まるで音楽理論の知識がないと、歌が歌えないと言われているようなものです。プロのミュージシャンですばらしい演奏をする人でも、楽譜をまったく読むことができない人は結構いるそうです。ですから特別な知識を前提としない作り方も当然ありえるわけです。逆に、もし知識が創造の前提になるなら、頭がよくて知識が豊富な人や、常に大量の新しい情報を吸収し、整理できる人ほど、良い作品が作れることになります。大学教授とか歴史学者が建築を設計していることもありますが、必ず良い物を生み出していると言えるでしょうか?

・仮説と実証という実験的な姿勢でいいんだろうか? 新しいことをしようと思って、様々な人が自由に挑戦することが悪いとは思わないけど、家を建てて欲しいと思った人にしてみればちょっと迷惑な話なんじゃないだろうか?家は何千万円もかかるわけですから。建ててみて初めて実証されるような性質のものでは、お客さんのみならず、創っているこちらも不安です。

・「~とは何か」から始める別の方法もあります。例えば対象に関わってくる事例をたくさん挙げて要素を分析していくという方法です。その中から面白いもの興味深い物を拾い上げては深めていきます。自分なりに物事の核心を深めていく方法とも言えます。そしてそれを計画の中心に据えて進めていく方法です。この方法はうまくいけばレベルが高いものを創り出せます。このプロセスを純粋にひたすら進めていけばアートなどに適した方法になると思います。・・・が何か面白さや興味深いことを見いだすだけでは足りないような気がしました。それを世に作品として送り出すには、建築が存在する根拠として弱い気がしていたのです。

建築のデザインプロセスは、お客さんと価値を共有しながら進めていかなければなりません。
お客さんの合意が得られなければ成り立たない仕事ですから、自分が単に何かを面白いと思っただけではだめなわけです。価値を共有しながら進めていけるような根拠の提示方法が必要だと思いました。

・しかし、作品の存在根拠や理由を突き詰めていくと、いつしか明確に答えることのできない領域に突入していきます。客観的な説明を意識すればするほど、泥沼にはまっていくことが多かったのです。これはなぜだろうか?といつも不思議でした。

自然科学というフォーマットの上で建築のデザインを進めていくと、いつかこうした壁にぶつかってしまいます。
このアプローチは有効な場合もありますが、デザインしていく上では何かが決定的に足りないのです。

それは何だったのか?


自然科学と工学(2)につづく

自然科学と工学(2)


■全ては欲望から

物事の客観的な成り立ち(今回の文脈で言えば作品の存在理由)を追い求めた結果、私はついに一歩も進めなくなりました。

しかしある時、簡単なことに気づきました。

例えば「あなたが友達と会った」とします。
これに対して、この行動の客観的な理由を説明するとどうなるでしょうか?

「二人で約束したから」と説明したり、「一緒に遊ぶから」と目的や意味から説明することはできそうです。

普段の生活で説明する分には問題ないけれど、実は根本的なことを何も説明できていません。

あなたは友達に会いたかったのです。

・・・どんなことも人が関わっていることは欲望が出発点になっていると私は考えます。欲望というとちょっとアクの強い言葉ですがという「人間が何かを求めようとする想い、意識、心の動き」というニュアンスです。この世界の成り立ちも様々な説明がなされるけれど、結局はみんなが「こうしたい!」と想う、その相互作用の結果だと思います。

客観的説明と言うのは結果やそこに至るまでのプロセスを説明しているに過ぎません。

説明をどんどん複雑に、精密化していっても核心には辿り着かないでしょう。

無から有が生まれる瞬間には欲望が関与しているのであって、
完全に説明し尽くせる領域ではないと思います。

・・・こうして、ものづくりにおいて自分の中から湧き出てくるものを出発点にしようと考えるようになりました。(ま、言葉にしてしまうと当たり前なんですが)

■ビジョン

人が関わる以上全ての物は欲望が出発点になっていると書きました。しかし「自分はこうしたい」と思ったことをそのまま形にすれば良い、というわけではなさそうです。なぜならそれは単なるエゴの産物かもしれないからです。お客さんが納得しながら一緒に考えていけるような物を提示する必要があります。

だから自分の個人的な想いからエゴという要素を取り去ったものを提示できないといけないわけです。

ではどうすればいいのかというと、それは「ビジョンを描くこと」なんじゃないかと思います。

ビジョンというのは、そこに広がる具体的な理想の未来のことです。

ささやかな理想でも良いと思うし、究極の理想でもいいと思います。建築に関わる諸条件、お客さんの要望、予算、時間、かけられる労力、そういった枠組みの中で描ける最高の未来を描き出すこと。
これが大事だと思っています。
それは個人的な想いや執着といったエゴを超えて、多くの人を巻き込みながら、案の可能性や潜在力を高めていく方法だと考えています。

理想を未来に向けて掲げること。
全てのデザインはここから出発する必要があると思います。

※もう一歩踏み込んで言うと本当に自分がやりたいことを実現させるためには、
個人的な欲望や執着を捨てないと、プロジェクトを進める上で足かせになってしまうのです。
目的に対して厳格であれば、どうすればよいのか自ずとわかります。

■そして工学

今まで書いてきたアプローチで設計を進めると
→ビジョンを描く
→諸条件の中で形を与える
→シュミレーション
→修正
→うまくいかないときは最初のビジョンにフィードバック

こうした循環をぐるぐる巡りながら論理的整合性を与えていきます。なぜ論理的整合性が重要かというと、基本設計の段階でここら辺をしっかりさせておかないと、その後の実施設計やディテールの考え方、部材の選定基準、お客さんへの説明に矛盾が生じてくるからです。でたらめな物をお客さんに出すわけにはいきません。

さて、回り道になりましたが、こうした物作りのアプローチこそまさに工学だったのです。

工学というと建築の環境工学とか構造力学、材料工学、土木工学、家具で言えば人間工学など、なにやら実験と数字とコンピュータ解析というようなイメージが強いので、デザインと工学は別物と思われがちです。

しかし、初期モデルを与え、シュミレーションをしながら、そこから得られたことを初期モデルへフィードバックさせるというのは同じです。例えばエンジンも図面通りに初期モデルを完成させても予測通りに動くとは限りません。無数の要因が絡み合って思うような結果が得られ無いことの方が多いと思います。そこでシュミレーションしながら、要因を特定して、少しずつ全体を修正していくわけです。

各社のエンジンが違う形をしているのは、初期モデル(ビジョン)が違うからであり、シュミレーション方法や、分析の質が異なるからです。もっと言えば、培ってきた設計思想や価値基準、美的基準も違うからです。

・・・ということは設計者(達)の特性を反映させやすい方法でもあると言えそうです。
だから工学的アプローチだからといってオリジナリティーや芸術的側面の否定には全く繋がらないのです。

また、仮の枠組みとしてのモデルを与えるところからスタートするので、膨大な情報の読み込みや分析に追われてデザインが始まらない、ということもありません。(もちろんある程度調べますけど)
非常に現実的なアプローチでもあると思います。

今までの経験や、培ってきた知識や手に入る情報から出発できる進め方と言えます。

■フレームについて

フレーム(枠組み)があるというのは、新たな知を発見したり、価値を生み出していくときに欠かせない概念です。フレームがあると人間の能力というのは良く発揮できるようになっています。また、他の人が見ても理解しやすくなります。

どういうことなのか?

例えば将棋というゲームがありますが、限られた盤面と駒を使って棋士は無数に手を考え、戦局を読みます。限定された領域があることで、奥行きのある創造力を発揮することができるようになるわけです。

また、映画や小説でもこの方法は良く使われています。
殺人事件は密室で殺人がおきますよね。あるいは事件が起きたら橋が落ちたとか、電話線が切られて外界から遮断されたという設定に移行します。そこに居合わせた主人公なりが問題を解決するわけですが、あえて限定された領域を設定しているわけです。これを「限定性」といいます。

「タイタニック」も周りは凍り付くような海が広がっていますし、深海やSFものとかも領域が限定されています。「24」も全てのことが同時進行してリアルタイムに、かつ24時間で解決するというフレームがあって初めていろんな要素が盛り込めるのです。

逆にいうと、殺人事件が起きて犯人が普通に逮捕されたり、トム・クルーズが危機に陥ったときスーパーマンが現れて危機を解決したりはしないわけです。限定性が崩れるので、主人公の能力は全然発揮されません。また、24時間ではなくて1000日で同じことを延々と放送されても、見てるこっちまで疲れてしまいます。主人公は知力や行動力を駆使して、たくましく生き抜く魅力的な人ではなく、面倒事にたえず巻き込まれている人としか見えなくなってきます。

・・・というわけで、プロジェクト固有の知を見つけ出すためにもフレームがあるというのは結構重要な要素だったりします。
そういう意味でもまず最初にモデル(ビジョン)を作り出す、ということが大事になってきます。

■まとめ

自然科学が物事の成り立ちを求めて核心(中心)に向かって知を導き出すジャンルなのに対して、工学はこれから先の未来において、現実の問題により良く対処していくための知を生み出すジャンルだとも言えると思います。「~とは何か?」ではなく「何のために?」という問いかけが意味を持ってくると思います。ですから工学は自然科学の中に含めるのではなく、別個のジャンルなんじゃないか、というのが自分なりの結論です。向いてる方向が違うわけですから。

デザインを進めていく中で、この工学的な知を発見する瞬間、そこからフィードバックしてビジョンが完成する瞬間が大好きです。複雑な全体の中で、歯車が強力にかみあうような充実感があり、挑戦するに値する面白さがあります。